この1カ月、わたしの中にいくつかの変化が訪れました。

とても感覚的なもので、言葉にして表現するのは難しいもののような気がしますが、
どうしても書いておきたくて。
ご興味があれば、ひとりごとにお付き合いくださいませ。

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20100920神奈川の海 海に行ってきた。

落日の海は人影もまばらで、
寄せては返す波の音がひたすら繰り返す。

 

無残に打ち上げられた魚の死骸。
何事もなかったように通り過ぎる犬。

海は、すべての死をのみこみ、すべての生を生み出す。
ただ自然で、ただ宇宙の法則がそこにある。
*  *
数日前、久しぶりに自分自身の癒しと向き合った場で、こんな経験をした。

次から次へと押し寄せる感情と感覚。
何を感じているのかすら認識する間もなく、
内側にある感情が流れ出て、青い静かな炎が綺麗に燃やし尽くしていく。

抵抗することなく身をゆだねると、どこか甘美なうねりに似て。
波が打ち寄せるように、引いては寄せ、引いては寄せ…。

体験的に、そこまでは大丈夫という自信もあり。
でも、全身は痺れて、思うように身体が動かない。

妊婦の陣痛さながら、友人たちが手を握ってくれて。
その痛みを抜けた先で、正体不明のカラカラとした笑いに出会った。

一瞬、壊れた。

そうわたしは感じた。
限界の閉塞感があって、「壊れたい」と、どこかで望んでいたのかもしれない。

わたしが知る癒しの場では、感情を処理する過程で起こりうる現象だが、
その時のわたしの様子は、心友ですら理解しにくい光景だったらしい。

それは、素のわたしが新しく生まれた瞬間でもあった。
古いわたしの感覚が死んで、再生を感じる出来事だった。
* *
わたしは、この1カ月、“手放し”をテーマに過ごしてきた。

その結果、「こんなものまで握りしめていたのか」というガラクタや
「これだけは永遠に手元に置いておきたい」という大切なものが見つかった。

その大切なものすら手放す覚悟をした時、感じられたものがある。

自己嫌悪の奥にある強さと美しさ。
コンプレックスすら預けられる信頼とつながり。
存在することを許される安心感。
男女とか、親子とか、友達としてとか、人としてとか、そんな区分を超越した、ただの“愛”。
偶然の中にある必然。
ささやかな生きる理由。

たぶん、もっとたくさんの何かがあるのだろう。
感覚的な回路が一気に開いて、インスピレーションの断片が散らばっている。
確かな感触はあるのに、言葉が追いついてこなくてもどかしい。
* *
でも、こうして人は、生きながら何度も生まれ変わりをするのだと実感している。

海の波が永遠に途切れることがないように、
心のあり方がほんの少しだけ形を変えて命が続いていく。
越えられない痛みなどないのかもしれない。

ひと、それぞれ。
わたしには、今のわたしが受けとめられる反応が出ているのだろうと思う。

覚醒と言ったら大げさだが、
それに近い変化がめまぐるしいスピードで訪れているような気がする。

今、新しいわたしをはじめてみようと思う。
* *
ちなみに、このひと月でわたしが最後に手放したものは…
左下歯の銀の詰め物だった。

しぶしぶ約20年ぶりに歯科医院に行って、生まれて初めて歯のレントゲン撮影をした。

これまで、「過去の歯列カルテはもう存在しないだろう」と思っていたわたしには、
「行き倒れて息を引き取ったら、身元不明の遺体になるだろう」という物語があった。
(冷静に考えると、なんとも脈絡のない、ツッコミどころ満載の物語なのだが。)

しかし、銀歯の詰め物を手放した結果、わたしの心の観点からすると、
歯のレントゲン写真という“自分自身の存在の痕跡”を手に入れたらしい。

“手放し” 恐るべし。

ものごとの捉え方は、考え方・感じ方次第。
新しいおもちゃを手に入れたかのように、当分“手放し”を使って楽しめそうである。

歯科治療で相当量の麻酔をしたのだが、なぜかわたしの神経は麻痺しなかった。
無性に自分の身体が愛おしく思える瞬間がそこにあった。
* *
今日から10月。今年残りの3カ月に何をしましょうか。